焚き付け

主に日記を書く

湖底に沈む

 ようやく修論も終わり、平安が訪れている。実際のところそれほど厳しいものではなかったのだが、やはり頭の中を常時占有するのが良くない。そういう意味では終わると非常に開放感がある。

  論文を出したのが10日、17に発表をして25に修正提出というスケジュールだったが、幸い修正もほとんどなく実質17で終わったようなものであった。23と24で富士川に行ったのは前の記事に書いたとおりである。結局自分の研究はおおよそそれなりというところまで進めることはできたが、多少の心残りもある。1か所宙ぶらりんのままの場所があるので、それくらいは一応解決してから引き継ぎたい。

 これで3年間研究というのをやってきたわけだが、そろそろ飽きてきたのいうのが正直なところではある。同じプログラムで似たようなことをやるのもあまりおもしろくない。何か新しいことをやらないとそのために必要な勉強もしないので、何もいいことがない。もう一点研究に対して不満があるとすれば、もう少しフィールドに出たかったというのがある。これは4回生で研究室に配属される前から思っていたのだが、数値解析よりもフィールドワークや実験のほうが役に立てるという考えがあった。それはフィールドワークや実験がマンパワーを必要とするからだ。数値解析というかパソコンを利用した作業は多くの場合多くの人員がいることよりもひとりの優秀な人間がいるほうが重要で、優秀な人物が優秀なプログラムを作ってしまえばあとは脳味噌がある人間がいればそれで充分である。そういうわけで、自分の希望はフィールドに出ることだった。が、実際にやったのは解析。自分が引き継いだ研究は博士まで進んだ人がやっていたものだが、この人がやれば1か月でできたであろうことを3年かけてやっただけだという思いがある。無力感がないわけではないが、これが自分にとっては3年間の成果であることもまた事実であって、これを否定するということはない(もっとできたとかいうのはまた別の話)。時間に貴賎は存在しないので無駄な時間という表現はあまり使いたくないが、修士に進んだ2年は悪いものではなかったように思っている。もしフィールドをやっていたら、また別の現在があったかもしれない、そう思うだけだ。

 発表を終えた数日後、修論を焼くついでにラボで焼肉をした。自分の所属するラボは遠隔地なので無法地帯であり、勝手に七輪を持ち出してBBQをやったりできるのだ。なぜ修論を焼いたかというと、このあと修正が発生するために元の版は不要になるからである。別に修論に恨みがあるとか解放感からとかいうわけではなく、どうせゴミにするくらいなら燃料にしたほうがよい、ただそれが理由だ。部の先輩や後輩を数人呼び、炭と修論を燃料に肉を焼いた。厚みがあるものは炭でじっくり焼き、薄い肉はすぐに火が通るので修論を投入して一気に焼いた。100ページ近い修論は肉を焼き終わってなお余り、残りは適当にくべて炎を鑑賞した。全て燃やし切った後にはあたりは灰まみれになり、それを水で洗い流して会は終了した。きわめて象徴的で美しいイベントであった。

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無駄な印刷物をゴミにしない

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終焉と再生、循環の讃頌

 謎のウィルスが世間を騒がせている。観光客が減っていることもあって、これを機に観光地に行ってきた。まず京都では普段外国人が多い伏見稲荷に行ったがやはり人はまばらであった。なお時間の都合上千本鳥居には行っていない。同じ日に東福寺にも行ったがこちらは思っていたよりずっと広く、石庭もほとんど人がおらず非常に快適であった。人の少ない京都はなかなか良い。ちなみにこの日は脂の木曜日であり、京阪沿線を観光しつつパン屋巡りをしたが、ポンチキを売っている店は1軒もなかった。仕方ないので代わりに揚げドーナツを発見するたびに買い、4個くらいで胃もたれがした。夜に修論と肉を焼いたのもこの日の話である。

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 また別の日には突然思い立って有馬温泉に行ってきた。折角なので六甲を山越えして行ってきたが、天気も調べずに家を出たため道中はひどい雪だったが、途中からは晴れてきて爽快だった。温泉は予想通り空いていて、これまで混んでいるからと避けていた金の湯、銀の湯もゆったりと入ることができた。やはり温泉で最も大事なのは混んでいないことで、雰囲気や泉質はその次である。駅メモの温泉むすめコラボがまだ続いていたのでこれも回収した。ゆのこれが終わって以来温泉むすめの動向は全く知らなかったのだが、有馬でもイベントをやっていたらしく街には等身大パネルが何個か置いてあった。が、等身大パネルが複数あると彼女たちは複数存在しているのかという疑問がよぎり、なんとなく頭が混乱してくる。有馬に下山した時によくコロッケを買っていた精肉店にもパネルが置いてあったのだが、いつのまにかだいぶ値上げしたらしく、少し悲しい気持ちになりながら素通りした。

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 4月から引っ越しなので、家を決めるなどした。なにぶん一人暮らしははじめてなので何も分からない。安かった上に立地も良かったので、謎の構造物が邪魔をしているやたら古い物件にした。ここまではいいとして、これから電気だのガスだのを通したり住民票を移したりするのが非常に面倒である。が、やらないとまともに生きていけないのでやらざるを得ない。気は乗らないが、少しずつやっていかねばならない。社会が無数の存在によって構成されていることを嫌でも実感する。