焚き付け

主に日記を書く

焚き付け

  タイトル回収BGMみたいな感じになっているが、眠れないので書いているだけの文章である。なんでこんな題かというと、焚き火をしたいからだ。

 

  

  こんなタイトルにした手前なので、せっかくだからなんでこのブログのタイトルを焚き付けにしたか書いておこう。

 

  そもそも焚き付けとは何かというと、火をおこす時に木や炭なんかのメインの燃料に着火するために用意する、燃えやすいけどすぐ燃え尽きる材料のことで、要は着火材である。沢で焚き火をやる時はだいたい枯れた杉の葉っぱかトイレットペーパーかのどっちかを使っている。と色々説明してみたが、実際のところこんなタイトルにした深い理由はなく、せいぜい沢と関係していてそれっぽい単語を用意しただけのことである。後付けで言えば、焚き火ではなく焚き付けにした理由はブログに文章を書くという行為にあまり重要な価値を認めていなかったからかもしれない。また、時々いらなくなった紙燃やしたりすることもあるので、その意味で雑多な殴り書きみたいな意図があったかもしれない。まあ後付けならいくらでもできることである。

 

  焚き付けついでにブログを始めた契機でも書いておこう。もっと前から何か日々の履歴を残しておきたいという意思はあった。が、日記はもっとも苦手とするところである。小学校の夏休みの宿題に一行日記みたいなのがあったが、まともにできたことはない。しかしその一方で、リーダーとして沢に行くたびに部の記録として(義務として)ブログを残してきたという一面もあった。そんなわけで、ブログという形態は身近だったのである。というわけで、いつか始めようと思いながら開設のめんどくささに勝る始める理由がなく、先延ばしになっていたのだった。

  その始める理由となった、本格的な経緯はふたつある。今更書くまでもないと思うが、そのうちひとつはトライナリーである。トライナリーを惜しむ多くの人の文章を読んで、自分も何かを残したいと思った。あの5日間とその後を忘れるわけにはいかないという思いがあったからだ。

  もうひとつは比較的隠れた理由だが、人の書いたブログを見て面白いと思ったからである。日常のことやちょっとした思いを淡々と書いた文章が自分を惹きつけた、それだけといえばそれだけだが結構大きなものだ。長くやっている人のブログを見ると、書いている文章は似ているのに結構雰囲気が変わっていたりする。人間案外変わっているんだなということが分かるのだ。その変化を見れるようにしたいという思いがあり、一方で単純に自分もあんな文章が書きたいという思いがあり、開設に至ったというわけである。が、今の日記ははっきり言って出来事の羅列に終始することが多く、もう少し随筆的な文を書ければ良いとは思っている。もともと寺田寅彦幸田文など随筆が好きで、日頃あんな文章が書ければとは思うが現実は厳しい。

 

 

  えらく脱線が大きくなってしまった。焚き火、焚き火である。焚き火がしたい。ただ山に入って焚き火をして寝るだけで良い。火を熾して、少し大きくして、薪が燃え尽きてきたら中央に寄せて、新しい木を足して、寒くなったら燃えている部分を崩して燠火を作り、気が向いたら形を整えて眺める、ただその繰り返しである。何が良いのかと思われるかもしれないが、楽しい。風向きが変わったら移動しないといけないし、時々火の粉で服が融けるし、明かりにつられて虫はやってくるし、当然良いことばかりでもないのだが、そんなのは気にならない。別に話し相手が欲しいとも思わない。ただ眺めて音を聞いて世話をするだけで満足なのである。

  何が楽しいのかと言われると説明に困るのだが(自分でもよくわからないため)、まあ書いてみよう。まず、火を見るのが楽しい。炎の形は変化し続け、風が吹くとゆらゆらと揺れ、時には火の粉をあげ、飽きることはない。北欧のどこかの国で暖炉の火を放送するだけの番組が好評を博したと聞くが、炎を眺めるのが好きなのは多くの人類に共通なのかもしれない。それから、世話をするのが楽しい。焚き火は小さいほど不安定で、頻繁に木を足したり薪の向きを適切に変えたりしないとすぐに消えてしまう。薪は集めた分だけしか使えないので、あんまり大きくするわけにもいかないのだ。そんなバランスの中で焚き火は成り立っている。焚き火の世話は、例えばレゴで遊ぶような楽しさがあるのだ。あとは、火で遊ぶのが楽しい。例えば燃えている炎に砂をひとつまみ投げ込んでやるとパチパチ音がするし、人工物を燃やすと(良い子は真似してはいけない)ドロドロに融けたりカラフルな色の炎になったりする。お湯は沸かせるし、食べ物はなんでも焼ける。他にも杉の葉っぱをぶち込んで火柱を上げたり、とにかく火はいくらでも遊び方がある。

 

  思いつくままに書いてみたが、これで理由を網羅できたとは思わない。むしろ、書けていない部分にこそ楽しさの本質があるような気すらする。そもそも楽しいという表現も正しいのか分からない。が、とにかく焚き火をしている時間がこの上なく幸福であることは事実なのだ。

 

 

沢をやって、山でやる焚き火の楽しさを知った。沢と焚き火の楽しさは分けて考えるのが難しいくらいである。その日の行動時間がどれだけ長くても、どれだけ疲れていても焚き火をやらなかったことはないし、薪集めを嫌だと思ったこともない。やらないのは雨が降っている時くらいである。沢登りの教本を見てみると、どの本にも焚き火について書いてある。それほどに焚き火は沢登りと密接に関わっているのだ。自分は焚き火の炎は沢登りの精神の象徴だと思っている。焚き火は沢登りの自由さであり、反骨である。トライナリーで心のある程度奥にもコンビニがあるという話があったが、自分の心の奥に焚き火の燃える場所が絶対にあると信じている。そしてこの焚き火の部屋は自分が沢登りで得た精神であり、たとえ沢をやめようと失ってはいけないと思っている。

 

 

いろいろ書いたがどれもあまり重要ではない。いいから焚き火がしたい。

 

 

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