6月になってそろそろ周りの人々も就活を続々と終えているので,ここらで感じたことなどまとめておこうと思う。
まず結果から言うと,3社受けて1社は書類で落ち,2社通った。落ちたところはむしろ一番落ちないと思っていたので,そのあたりは面白い。書類にとんでもない不備があったか,それとも何か見透かされていたのだろうか?まあそんなことはどうでも良い。スケジュールとしては、昨年はどこもインターンなどには行かず,3月に入ってようやく重い腰を上げて心底軽蔑していた就活サイトに登録しラボの先輩に誘われたところ(Aとする)を受け、Aに続いて出した滑り止めのところ(Bとする)が書類で落ち、その後Aの結果待ちの間にそれなりに行く気のあったところ(Cとする)のESを出したその日にAから内々定の連絡があり,結局ESを出したのでそのまま受けたCからGW前に内々定の連絡が来たのでAを蹴って終了という感じだった。なかなかスムーズだったのではなかろうか。システム上やむを得なかったとは言え就活サイトに登録したことに関しては人生の汚点としか言えないが…。
ここまで書くからにはなぜ就活サイトがそんなに嫌いなのか書かねばなるまい。就活サイトは学生サイドと企業サイド両側に悪影響を及ぼしていると考えているからである。就活サイトの存在は企業にとっては応募する学生が増えて手間も省け、学生にとってはエントリーがスムーズになり手間が省けるというのがメリットである。が、これは本当だろうか。応募する学生が増えるということは当然名目の倍率は高くなり、その分学生は多くの企業を受ける圧力がかかり、企業は面接する(本当に志望度が高いとは限らない)学生の数が増える。本当に手間は省けているのだろうか?また、応募する学生が増えるということはその分評価に関する面接のウェイトを下げざるを得なくなる。本当に志望度が高くて社風に合う学生が学歴などの真に重要ではない理由で面接にすらたどり着けなくなるかもしれない。さらに言うと、就活ではいくつもの内定を得る人と全く得られない人に分かれるという傾向がある。どこの企業も同じようなやり方で選ぶのだから同じ人間が大量の内定を得るのは当然であり、また経験が多いほど有利であるという点からそのような人間は相対的に多くの企業を受けているという傾向もあるだろう。それらのことを考慮すると、結局就活サイトにより手軽に応募ができればできても、結果として同じ人間が多くの企業の内定を得て結局そのほとんどは蹴られ、その他の人間はその煽りで落ちる所が増えてその分より多く活動しなければならなくなり、企業は辞退数が増えるだけで結局最後に入ってくる人間にそれほど変化はないだろうということが想像される。むしろ条件が良かったり人気のところに優秀な人材が集まるという構造が強化されているだけではないか、ということを主張したい。公平のために言っておくと、確かにたくさん受ける中で志望度が低かったところに予想外の"運命"の場所を得られる人もいるかもしれないが…。
○ES
受けた3社全てでESを書いた。Aのものは某就活サイトが提供するこれ一つで提携してるいろいろなところに共通で出せるESというやつで、残りふたつは手書きだった。最初に書いたのがAのやつで、確かにどこでも聞かれそうなことを集めておりよくまとまっているし、実際書く方も楽である。とはいえ、この共通ESというのが一見楽そうに見せかけて本当は一部の優秀な人間だけが得をするものであることは改めて指摘するまでもない。(もっともこの方式がほぼ全ての企業にに普及すれば、その弊害は少なくなると考えられる。受ける所/受ける人数が多くなれば多くなるほど新たに1社/1人受ける追加コストは減少するためだが、果たしてそこまでなるだろうか?もし共通の一枚のESであらゆる企業を受けられるようになればどのようなことになるのか、気になるところではある。)
残りは共に手書きで、どちらも紙2枚程度だった。Bの方は手書きなだけで内容は当たり障りのない感じ。Aで書いたものを流用して出して落ちた。もはやよく覚えていないので何が悪かったのかもわからん。Cは結構凝っており、ウェブサイトのお知らせ情報から気になった内容について書くなどの設問があり、必然的に書くのにかかった時間はもっとも長かった。書く側からするとめんどくさいことこの上ないのだが、個人的にはこれくらい面倒な方がやる気があるやつ以外をふるい落とせるので良いと思う。 あとは手書きかどうかだが、個人的には字の綺麗さを求める場合以外はむしろ手書きにするのは良くないと考えている。これは面倒かどうかというよりも、むしろ見る側に先入観を与えるため好ましくないからである。もし同じくらいの評価の人間ふたりのうちどちらかを落とさなければならない場合、両者の字の綺麗さに差があれば多くの場合汚い方が落とされる可能性があると思われるが、その微差の評価を文字の綺麗さごときで評価してしまって良いのかという話である。おそらくこの手のバイアスを完全に取り除くのは不可能である。今までの経験上、字の綺麗さと本人の性格には相関はほぼ無いように思う。というか走り書きの字が上手い人の文字と字を書くのが苦手な人が丁寧に書いた文字を正しく認識できるのかという話である。だいたい字体なんか見ている暇があったらもっと中身を見た方が良い。だいたい今時手書きで間違いがない文章を書くよりPCでtypoのない文章を作る能力の方が必要という場合が多いのに、わざわざ手書きを求めるのは不合理だろう。
内容について。どこのものでも出てきた設問が志望動機,研究内容,学生時代に力を入れて取り組んだもの,自己PR,であった。前ふたつは特に書くことはない。学生時代…のやつは当然沢について書いた。書く前から分かっていたが,こんなに書きやすい話題はない。まあ計画立案から実行まで全てワンセットで行う上に安全確保や現場判断など書こうと思えば何でも書ける。別に沢でこのようなことをやっていたからと言ってそれが業務で役に立つとは全く思わないが,要は説得力の有りそうなものを書ければ良いのである。だいたい沢登りを正しく理解している人間なんてわざわざ探さないと見つからないし…。一方自己PRというのは難物である。何が問題って非常にあっさりした設問なのがまず難しい。何を書けば良いのか分からん。とはいえあるものに対して「それ何がすごいの」という質問は至って普通であり,自分もよくやるのでこの設問は全く非難できない。とは言えこれを自身に適用するのはなかなかしんどい。要は自分が相手にとってどれだけ利益があるか書くだけなのだが、なかなか書けない。自分を高く評価するのが嫌というのは当然大きいのだが、それだけではない気持ち悪さを感じる。この違和感がどこからきているのかはまだ答えが得られていないので、これ以上入り込むのはやめておく。結局「沢で培った柔軟性〜」みたいなことを書いてお茶を濁しておいた。この部分が全体を通して一番苦労したし精神的にも消耗した。
○テスト的なやつ
日記の方にも書いた気がするが。Cでいわゆるテストセンターというのをやった。任意の会場を勝手に予約してオンラインのテストを受けると結果が勝手に向こうに送信される。なかなか便利だが、交通費が出ないので地方在住者には少し厳しいか。実施環境としてはフェアだが…。形式としては、それなりに長い時間で大量の問題を解く感じである。劣化センター試験と言っても良いだろう。内容は計算問題や図形なんかの算数系が多く、英語、国語、ノンジャンル知識問題の順に問題量が減っていく。ラボに置いてあった本をちらっと見て簡単そうだったので何も対策せずに行ったが問題無し。単なる時間との戦いで、実質ベルトコンベアを流れる刺身にタンポポを乗せる作業と同じである。この程度で差がつくのかは微妙だが、どうしようもないやつを振るい落とすためならこれくらいで良いという気もする。おそらく苦手でも練習すればなんとかなるだろうし、天才を集めたいのでなければこれで充分なのだろう。
日記に書いた気もするが、内容に文句がある。一点は英語で、もう一点は常識問題である。英語は何が問題かというと、知識問題の割合が高過ぎる。問題の半分以上は単語やイディオムだったが、いくらなんでも多過ぎないかと。語彙力とその言語の理解度にそれなりの相関があるのはもちろんその通りなのだが、とは言えどう考えても重要なのは複雑な語彙力よりどんな単語を使おうが伝わるかどうかなのは間違いなかろう。あと多かったのは並べ替え問題だが、こちらも文章を作成する人以外はそこまで要求される能力ではない気がする。というわけで、下手に凝った問題を作るより普通の英訳、和訳問題なんかで良いと思うのだが。あとはオンラインなのでリスニングなんかも出来るとなお良いのだが。常識問題は理科社会から音楽美術まで教養のふりをした問題が少量出てくる。問題数は各ジャンルせいぜい1,2問程度で、専門性(重箱の隅度)はやや高い。この程度の問題数ならもっと問題を簡単にして解けない奴は解けないくらいの問題の方が良さげである。知識をある奴を選抜したいなら難易度を上げる代わりに問題数も増やして運の良いだけの奴をなるべく排除する方が良い。明らかにこの手のテストの主旨はそうではないので、難易度を下げるのが適切だろう。
短時間で多くの問題を解くのに特に重要なのが集中力であることは言うまでもない。自分はこういうテスト的なのにはやる気が出るのでそこそこ集中できるのだが、日常で集中力があるかというと全くそんなことはない。そのあたりを向こうに誤解されると少々厄介ではある。間違えた問題はほとんど無かったと思うのでこのテストの成績だけなら間違いなくかなり上位だと思うのだが、その結果を見て勝手に優秀な人間だと思われるのは避けたいところでもある。避けようにもどうしようもないことではあるが…。
○グループディスカッション
Cでやった。ここでは筆記試験(語句説明)もやったが大して感想もないのでこちらは省略する。文理問わず、それなりに時事の要素も押さえた割と良い単語のチョイスであったとだけ書いておく。Cの選考形式はやや珍しく、ESと先述の常識クイズを通過した者を全員本社に集めて筆記試験、グループディスカッション(以下GD)と面接を1回やってそれで終了である。ということで、このGDはそこそこ重要度のあるものと思われる。
メンバーは5,6人程度で、時間は確か90分+発表とかだったと思うが記憶が定かでない。もっと長かったかも。議題は最近はやりの働き型改革だった。色々な案(10以上)が提示されてこの中から適当にチョイスして最強の働き方改革を考えろという形式である。最初はつべこべ言わずに全部やれよとひとりこっそり憤慨していたが,考えてみるといろいろ対立する問題もあり,そう簡単に全部というわけにもいかないようである。内容についてはあまり深入りしない。能力給制度の導入に関して肯定的な人の割合が非常に多かったことに驚いたことだけ書いておこう。ちなみに僕は終身雇用の方が良いのだが、終身雇用というか時間給制度は在宅勤務などの自由度の高い働き方との相性が良くないことをGD中に理解したので今はなんとも言えんなあという感じである。
さて、GDはなかなか良いシステムだと思う。集団面接は一度も体験しなかったが、こちらよりは明らかにメリットが多そうでかつ平等だと思う。メリットは2点ある。まず、時間効率性が高い。集団面接と言っても結局順番に1人づつ喋るだけなので、結局ひとりあたりの発話時間は1/人数しかないわけだが、GDの場合は時間中ずっと参加することになるわけで、明らかに時間効率性が高いのがわかるだろう。もう一点、話す順番が無いので公平である。これは詳しく書く必要もないだろう。そして何より面接は面白くないのでGDのがやる方としてもまだマシである。
○面接
AとCでやった。Aは1対2、Cは1対多数(7,8人程度か?)だった。どちらも30分程度。なぜかどちらも研究のことばかり聞かれた。知り合いに聞いてみるとむしろ研究以外のことを聞かれる方が多かったらしいのだが、理由は分からない。こちらとしては答え易くて良いのだが。ちなみに聞かれたことの内容もその割合も、AとCでほとんど同じだった。これがどういう因果なのかもわからん。サンプルが少な過ぎる。
研究以外のことで両方で聞かれたのが短所についてだった。適当に優柔不断なことと答えておいたが一瞬で「それは長所の裏返しだろ」と見抜かれた。「そうですね」と答えておいた。それで何が悪い。答えるのに一瞬でも困った質問はこれくらいだった。もっと厳しいことを聞かれると思っていたので拍子抜けもいいところである。研究と多少なりとも関わりがある所を受けた恩恵だろうか。とはいえどちらにも散々聞かれた上でお前のした研究と同じことができるわけではないからなと念押しはされたのだが。その意味で言えば,研究のことを深く聞くことで分野そのものに対する理解度を測ろうとしたのかもしれない。
面接はおそらく最も時間効率が悪いものの,最もシンプルかつ確実な手法なので特に手法について言いたいことはない。受けるサイドからしても,最も情報を得られる場所であり重要度は高いだろう。まあ2社しか受けていない自分は当然大して重要視していなかったのだが。そういえば大手だとリクルーターと面談したりするそうだが,これは経験しなかったので分からん。恐らく企業サイドが優秀で公平な人をリクルーターにできるかどうか次第だと思うので,変な奴に当たったらご愁傷様という感じなのだろうか。
全体として良かったのかというと,これは分からない。そもそも本気で就活しても,結局は入るまで分からないという点で適当に就活するのも同じだと言う考えに立脚しているので,全ては入ってから決まることである。外れだったら苦しむなり転職するなり金を貯めて農家になれば良いだけのことである。既に確定した過去のこと,すなわち就活という活動だけを振り返るなら,非常に良かったと言ってよいだろう。日記に書いたが,就活のために西表を犠牲にはしなかったし,シャッツのトライナリーコラボに行けたのはむしろ就活のお陰とも言える。トライナリーと言えば,就活の話で選択という話題に関して書きたいことがあるのだが,長くなりそうなので下書きに移しておいた。個人的に書き残しておきたい重要なことなので,いずれまとめたい。感想も書きたいのだがなかなか筆が進まない…。
小学生の頃から,自分はサラリーマンくらいしかなれないと思っていた。記憶力があまり良い方ではないのだが,6年生の時に卒業関連で将来の夢ランキングを作りましょう的な授業があって非常に困ったことは憶えている。確かランクは10くらいあった気がする。小学校は地元の公立だったが,教育は割と最近の個性を伸ばす教育的なのをしっかり守っていたので,将来の夢をたくさん書かせたのも未来の広さを考えさせたかったのかもしれない。授業で当時頭は良かったが社会性のなかった自分がめちゃくちゃな発言をしても先生も他の学生もそれを尊重してくれたのでそのような風潮は良かったのだが,このときだけは困ったものである。小6にもなると,うすうす自分が何者にでもなれるわけではないことに気付いている。プロ野球選手になりたいからといってなれるわけではないことくらいとっくに認識しているのだ。当時の自分からすれば,プロ野球選手になるのも猫になるのと同様に不可能なことのである。それを理解した上であれになりたいこれになりたいと思うのはあまりにも空虚だろう。とは言えそう言い出すわけにもいかず,友人にサラリーマンが一番良いよねとかそんなに書くことねえわとか相談した記憶がある。結局1位サラリーマンなんかにせず周りの人と同じような感じにしたのだが,今思うとこの頃には社会性が芽生え始めていたのだろうか。その将来の夢ランキングはおそらく卒業時にタイムカプセルとして埋めて成人したら掘り起こされる予定だったはずだが,今となっては連絡を取れる人物がひとりもいないのでどうなったのかはわからない。
結局就活の結果そのとおりサラリーマンになることが決定したわけである。ただ,一応他の道があったことを書いておきたい。博士進学,つまり研究者の道である。教授からお前は研究者向いてるので博士行ったらどうかと言われていた。教授のその言葉が本心から出たものかどうかはこの際どうでも良い。小学生の時から自分の中で確定していた結末以外の可能性が提示されたのである。割と悩んだ末,結局は自分の能力を信頼できなかったので進学はしないことにしたとは言え,これは個人的には重大な出来事だった。その意味で,就職するにしても大学院まで進学して研究を続けたのは良かったと思っている。
永遠に大学生でいたい,そう思っても残念ながらそうはいかない。消費者で居続けるわけにはいかないのである。いずれ,より高度な社会性が必要になる。就活をしていて一番感じたのがこのことである。就活の内容についてもいろいろ批判したが,社会人の方々にはわかっていてもどうにもならない,あるいはわかった上でそうやっているんだと言われるんだろう。別に社会に対してある種の諦念を抱いているわけではない。どうにもならないこともあるし,どうにかなることもあるだろう。そのあたりは知りたくもないがいずれ知らなければならない。いつまでも子供ではいられないことを感じさせられた就活だった。